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ご無沙汰しておりました。
前回の更新から、思いの外滞ってない気もします。

いま九州に戻ってきています。仕事の関係と帰省とでまとまって休みをとった、というかとれた、というか。
今回は京都を経由してこっちに来たのですが、悪い芝居の事務所が全然変わってなくて、
でも確実に変わっていて、そうよそうよね、と思いかえしたりした。
京都はビックリするくらい日常を営んでいて、僕はひどく安心した。
というより、東京から来ないとこの「安心した」という感覚はきっと分かってもらえないと思っているが、
当たり前に日常を営んでいる西日本の人たちがあって、そういうひとたちが
当たり前に日常を刻んでくれているので、東に住んでいる僕たちはいろんなモノにありつけたんだと、
そういう事を考える。

さて、
福岡であった友人(年下)と話をしていたとき、

まあいろいろ考えててもきちんと言葉にして出すことが出来なけりゃいっしょだ、

という旨のことを言われる。
ちょっと眼から鱗がボロンボロンだった。
そうだよ、そのとおりだと。
だから、敢えてちゃんと書いてみようと思う。

正直、今回の地震の後のTwitterやらブログに吹き荒れる「正義」の嵐に、僕は結構参ってしまった。
なぜそんな声高に自らの正義を叫ぶことができるのか、僕には検討がつかなかった。
というより、僕には沈黙以外のすべての言葉が、
正確さを欠いた、雑で不確実なものに見えて仕方なかったからだ。
もちろんそれが必要な局面があったのかもしれないけれど、
僕はそれを選択しなかったし、僕がそうやって(ある一定の覚悟と正確さをもって)発信するには、
僕の知識なり情報なりが足りなさすぎ、結果そのような関わり方を社会とする覚悟ができなかった。
のです。

とは言っても北川もそれなりの仕事をしていたわけでして、
いまさらですが、東京大学の多目的ホールというところの維持管理をやっていました。
雑に言えば小屋付きみたいな仕事だと思ってもらえればいいと思います。
で、より正確に言えば、上には学部がいて、下には利用団体がいる、いわば中間管理職的な仕事です。
この地震が起こった後、ホールは4団体の上演を予定していました。
内2団体は中止になってしまったのですが、残りの2団体は公演を行いました。
もちろん東京大学の決定の中で行ったわけですが、
それでも「中止」の正義を叫ぶ人がいました。途中から「自粛」という言葉になりました。
この意思決定を、我々は地震が起きてから比較的短時間のうちに行うことが必要になりました。
当然のように東京大学当局との交渉も必要になります。
限られた時間とはいえ、逡巡、呻吟の末、結局我々は上演する方向で話をすすめました。

正直、未だに何がベストな選択だったかは分かりません。
やってよかった、となるのはある意味当たり前です。事故が出ないうちは、ですが。
それで「中止派」に「何もなかったじゃねーかよ」と結果オーライ論を振りかざすわけでもありません。
あくまで地震が起きず、死人が出ず、けが人も出なかったから良かっただけのことです。
もちろん準備はしましたが、それは運が良かった程度の話な気もします。
ただ、もちろん我々としては「団体側がやりたい、というならば劇場としてやれる準備をする」という
基本的な方針は曲げるつもりはありませんでした。
だからこそ、この「中止・自粛」コールに対して、神経が摩り減ったんだとも思います。
そして彼らの「正義」への迷いの無さにも、だいぶ鬱屈してしまったんだとも思います。

ちょっと回りくどくなりましたが、何がひっかかってるのか、
それはきっとこの

「正義の相対化と全体主義化」

っていう言葉にまとめられそうな気がします。


正義、は、ある特定の文脈の中で効力を発揮します。
同じ種の別の個体を殺してはいけない、という正義は人間だから成り立つのです。
カマキリには通用しません。
女性が顔以外の皮膚を出してはいけない、という正義は、
少なくとも日本の仏教を信じる人々にとっては非常にナンセンスです。
この「特定の文脈」が、非常に個人の持ち物になってきている気をちょっと前から感じていました。
その理由は、
ポストバブル、ポスト冷戦以降に社会が大きな文脈を失いつつある、ということ、と、
web2.0以降に、個人が個人の文脈を持つことを容認された気になっている、という
おおきくこの二つの大きな流れに沿うものだと思うのですが、
今回の地震で、それらが個々の生活や判断に影響するぐらいまで力を持ってきたような感覚を覚えました。
しかもこの「正しさ」が、多数決によって決められていく、
数が多くなることによって「正しく」なっていくことに、僕は恐怖を覚えました。
こんなに民主的な(と僕は思います。もし違ったら教えてください。)ステップを踏んでいながら、
非常に全体主義的な世論の形成が認められるのです。
寛容できない主義や思想は一気に叩かれることになっているように見えます。
この恐怖の中で、しばらく発信することを控えようと考えていたのですが、
件の彼の発言に戻るのですが、
言わなくちゃいけなかったんだと思い改めました。
発信できることはしていこうと、思うようになりました。
というわけで、ダーッと書いています。こんなにアレなのもなかなか無いですよね、このブログ。
いいんだ、たまにはだめですか。というか僕結構黙ってますね、今考えると。
発信していきます。ええ。決めました。

ちょっと話は戻って、この地震で、多くの人が感じている、
システムのリニューアル、新しい言論プラットフォームの創出、みたいなことも
同時に感じています。実際、劇場間での非常時の意見交換の場が新たに生まれたり、
それ以外にも多くの人がこれをチャンスだと考えていることは間違いなさそうです。

僕はいまこういう演劇を入口とするメディアの世界に身をおいていますから、
そこでのことをまずは考えるわけですが、
もう出来ることはただ一つ、人と人をつないでいくツールとしてのメディアの、
本当に初元的なところにまで立ち返った生み出し方の研究になりそうです。
それは劇作・演出だけでなく、ですが、少なくとも今後の指針の一つにはなりそうな気がしています。

なんだかずいぶん重たい自分でも途中でちょっと意味がはなれそうになるところを
なんどもなんども捕まえなおして書いた文章になりました。
恥ずかしい、これ非公開にしたらなお意味が無い笑

というわけで、しゃべることを、続けます。
それが僕に今できることだと、確信しています。
どうぞ、これからも宜しくお願いします。

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